クチート使いの随想録

徒然なるままに

世界の果て~Anywhere but Here~

世界の果てってどこだろう?

ここではないどこか、世界の果て、全ての終わり/始まり――

想像すると、決まって頂が思い浮かぶ

天空に座す山の頂。眼下には雲を纏う峰が連なり、燦々と輝く太陽に照らされている

世界への洗礼、祝福。天地開闢の場所。そこに生き物の姿はなく、ただ荘厳なる自然が威容を誇っている

 

仮にそこが世界の果てだとしよう

もし自分が、その世界の果てに到達できたのなら、どうなるだろう?

感動し、打ち震え、涙するかもしれない

その後は?

そのまま感慨の中で死ぬのか?

それも一つの選択であるが、結局「どこか」を死後に求めることと同義になる

「どこか」とは生活可能な空間、自分が行きつき、住みつくどこかでなければならない

そうするとどうなるか

世界の果てに到達したとしてその後は?

一瞬の感動を得て、下山し、(仮にそこを外国だとしよう)飛行機に乗り、家へと帰り、ああ、あの光景はよかったなあ、と一過性の感動を偲び、日常に戻る

結局世界の果てまで行き、瞬間的な感動を得ても、無感動でルーチンワークな日常と言う名の箱庭に戻らなければいけない

 

ならば「ここではないどこか」が世界の果てでなければいい

居住し得るどこかであればいいのではないか

D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?

我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか

このゴーギャンの代表作は、人にとって根源的で永久的なテーマであるように思える

そして、このような問いは自己存在や自分の置かれている現状に対し、疑問を抱いている遍く人々の心の内に発する

「ここ」に満足している人間は「どこか」のような仮定は考えない

であるならば、ゴーギャンやストリックランドにとってのタヒチ島は「どこか」になり得なかったのだろうか?

 

少し自分の求める「どこか」を掘り下げてみたい

一種の思春期病とも思えたそれは、今や原罪のような、生まれた時、生まれる以前から抱き、死、又は死後に至るまで持ち続ける「原病」なのではないかと思える

ここではないどこか――それは魂が安らぐ真実の故郷であるようで、心躍る非日常が日常的な世界ようでもある――をはっきりと意識し、求めるようになったのは物心つき、創作物にふれ、感性が触発されてからだ

とりわけ剣と魔法のファンタジーの類のものは、少年心に多大な刺激を与え、広大な世界をもたらした

そこから多くの創作物、本であれゲームであれ、に触れるようなり、今なお飽くことなく求め続けるのは、やはりそれらに「どこか」という憧憬を抱いているからに他ならない

そこで世界の果て、若しくは「タヒチ島」といった、現実世界で実現し得るかもしれない、到達可能な地点を想定し、たどり着けたとして、そこはやはり「ここ」ではないのだろうか?

ここではないどこか、とは実現し得ない憧憬の、魂の世界なのではないか?

現実世界が現実世界という規範に則った世界である以上、そこが果てであれ、「タヒチ島」であれ、共に「常識的に想像可能で実現可能な世界」であって、等しく箱庭なのではないか?

どこまで行ってもそこは「どこか」ではなく「ここ」であり、ともすれば家の外と世界の果てにどれほどの違いがあるのだろう?

「どこか」がここではない憧憬/創作の世界である限り、物理的距離に意味はなく、創作物を読み耽ることでしか満たせず、そしてそれは瞬間的な満ち足りに過ぎず、決してたどり着くことはない

 

そうして諦念にも似た絶望と、尚もここではないどこかを求め続ける欲求とが鬩ぎ合い、今日も焦がれた世界へ思いを馳せる